マッチ・コレクション/名城大学・天白第二食堂 (名古屋)

マッチ・コレクション/名城大学・天白第二食堂 (名古屋) -1-
マッチ・コレクション/名城大学・天白第二食堂 (名古屋) -2-
マッチ・コレクション/名城大学・天白第二食堂 (名古屋) -3-

2019年10月9日、リチウムイオン電池の開発・研究業績を世界的に認められ、旭化成株式会社名誉フェローである吉野彰氏がノーベル化学賞を受賞しました。
「たるみ燐寸博物館」に旭化成の広告マッチがあったように思うのですが、すぐに探し出せそうにないので、吉野彰氏が2017年から名城大学大学院理工学研究科教授を務めているということで、「名城大学・天白第二食堂」の古い広告マッチを今日のblogに残していきます。

今年10月5日・6日の2日間にわたって開催された「ヨコハマポートサイド アート縁日2019」で展示した多くのマッチ箱の中にこの「名城大学・天白第二食堂」を紛れ込ませていたことを思い出した方はいらっしゃるのでしょうか?
写真撮影は禁止していなかったので、スマートフォンの中に画像データとして残っている方が何人かいるかと思います。確認してみてくださいね。

1955(昭和30)年の創業した「名城大学・天白第二食堂」が昭和55年度に配った広告マッチ。御飯一杯が50円・ 70円、おかず一皿が50円・60円、味噌汁一杯が30円、カレーライスは100円・130円だったようです。

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マッチ・コレクション/海上旅館「景福」と食堂・喫茶「青函連絡船」

マッチ・コレクション/海上旅館「景福」と食堂・喫茶「青函連絡船」(1)
マッチ・コレクション/海上旅館「景福」と食堂・喫茶「青函連絡船」(2)
マッチ・コレクション/海上旅館「景福」と食堂・喫茶「青函連絡船」(3)

1922年に建造された「景福丸」は海外就航船でしたが、第2次世界大戦後の北海道と本州の「距離」を縮めるために青函連絡船となり、1949年7月30日に運航を終えて、函館桟橋に係留されました。
内装の改装後の1950年1月25日、海上旅館(海上ホテル)「景福」としての営業を開始します。
1956年の休業後、船体は放置され、1958年に解体されたそうです。

そんな遠い昔の経木のマッチ箱です。
マッチラベルのくすみのある、やや緑がかった青色の面には白い「波」が描かれ、背の部分に”函館桟橋”と電話番号が印刷されています。
きっと食堂・喫茶「青函連絡船」は海上旅館「景福」の中で営業していたお店なのでしょう。
カップに入った飲み物とスプーン、そして 操舵輪の柔らかなイラストがあります。

「景福丸」と海上旅館(海上ホテル)「景福」について詳しいことは「函館市史デジタル版」の [通説編第4巻 第7編] – [市民生活の諸相(コラム)] – [第1章 敗戦後の状況] – [14 海上ホテル「景福」]に残されています。

マッチ・コレクション/パン・喫茶・洋菓子「永野分店」 (高知)

パン・喫茶・洋菓子「永野分店」 (高知) -1-
パン・喫茶・洋菓子「永野分店」 (高知) -2-
パン・喫茶・洋菓子「永野分店」 (高知) -3-

“パン・喫茶・洋菓子”、”分店 中新町”、東店 帯屋町、西店 公民館前、田園 京町”、”永野分店”と印刷されたイラストとタイポグラフィーが素敵なマッチ箱が「たるみ燐寸博物館」にあります。

高知県内のパン業界を遡ると、1927(昭和2)年、高知市内に「永野忠」、「永野旭堂本店」と「永野」という名の付く2つのパン製造工場が創業しています。
1945年7月4日の「高知大空襲」で高知市内のパン業者は全焼したそうです。
1946年、最初に再建されたのが「永野旭堂本店」で、その後に多くのパン製造工場が続きます。

イラストやタイポグラフィーや箱の状態から想像して「そう遠い昔ではない(かなり古いマッチというわけではない)」とは思うのですが、「永野分店」が「永野旭堂本店」から分かれて独立した店であるという決定的な何かを僕が見つけたわけではありません。

思い出せないくらい忘れてしまった明日。

思い出せないくらい忘れてしまった明日。

「たぶん、僕の中には何もないのだと思う」と僕は言った。「僕は内部に空っぽの空間を抱えているのだと思う」
「空っぽであるのなら、何か詰め込めそうな気がする」と彼は言った。
「その空間は永遠になにも受け入れないために存在している」と僕は付け加えた。「永久に閉じられた静かな世界で、拡大していく」
「わからないな」と彼は言った。
「わからなくても、わかっても同じことだ」と僕は言った。