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「調整局/The Adjustment Bureau」とサンリオSF文庫

「調整局/The Adjustment Bureau」とサンリオSF文庫
サンリオSF文庫(今は存在しません)から刊行された「ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック」を僕は4巻全てもっているはずなのだけれど、「IV」が見つからない。きっと、積み上げた書類や資料の間か、それらを置いた棚の後ろ側に落ちているんだと思う。そうであってほしい。

これら4巻でフィリップ・K・ディックが書いた短編全てを網羅しているかといえば、そうではない。
彼はいったいどれくらいのアイデアを持ち合わせていたのかと思うのだけれど、映画化された短編や長編も多い。
僕は原作と映画は全く別の次元で捉えるモノで、しかも解釈はいくらでも存在しうると思っているので、映画が原作とかなり異なっていたり、アイデアだけを流用した全く別物であっても気にしない(原作者に敬意を払うという意味では少しは気にする)。

おそらく半年ほど前のことだと思うのだけれど、2011年にアメリカで公開されたそのフィリップ・K・ディック原作の映画「アジャストメント(原題:The Adjustment Bureau)」のDVDをレンタルして、SHARP製の古い28型ワイドブラウン管テレビで観た。
「どうして、まだブラウン管テレビ?」と言われると、「使えるから」としか言いようがないのだけれど…。

原作は1987年に新潮社から文庫本として刊行された短編集「悪夢機械(翻訳:浅倉久志)」に「調整班(原題:Adjustment Team)」として収録されていて、まだ僕は読んだことがない。
2011年に短編13作品を収めた「アジャストメント – ディック短篇傑作選」として、新たに刊行されたようだけれど、「調整班」しろ「アジャストメント」しろ、僕は未読。

興行収入的にどうであったか、知らないのだけれど、あまり映画としての評判は良くない。
僕は「結構いいよね」って感じで、かなり好きなんだけれど。
原作と映画の間に、接着剤を使っても引っ付けることができない素材の違いがあると言うのであれば、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」とそれを元に製作された映画「ブレードランナー」をどのように受け入れ、共存させると言うんだろう?

さて、冒頭に書いた「ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック」の「II」の巻末にある「著者による追想」で「ベニー・セモリがいなかったら」という短編について作品となったアイデアを書き記している。
もちろん、
“…作品そのものに語らせるべきだという、例のありふれた逃げ口上を持ち出すよりも、むしろ、わたしにもよくわからないのだ”
というコメントを含めて。

“歴史上の有名人の少なくとも半分は実在しなかったのではないかと、つねづねわたしは考えてきた。なにかを発明する必要にせまられたとき、人はそれを発明する。ひょっとすると、カール・マルクスも、どこかの三文作家が考え出した発明かもしれない。もしそうだとしたら – (翻訳:浅倉久志)”

僕は歴史上で有名でなんでもないわけだけれど、そう、僕も「実在しない人物」なのかもしれないよ。
必要にせまられて、誰かがこのblogを書いている。

* blog内、全て敬称略です。