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“防災にマッチ 人気に着火”と題して(読売新聞:2013年5月11日)

「レッドアリゲーター」にて取材/多くのマッチを前に、メガネをかけ、青いシャツを着ているのが僕「レッドアリゲーター」にて取材/多くのマッチを前に、メガネをかけ、青いシャツを着ているのが僕

53の宿場と起点・終点の計55個が未だに揃っていない「東海道五十三次」のマッチ箱53の宿場と起点・終点の計55個が未だに揃っていない「東海道五十三次」のマッチ箱

おおよそ11日分の微笑みを使ったのは2013年4月5日。
2013年5月11日(土曜日)の読売新聞大阪本社版(夕刊)に「防災にマッチ 人気に着火/震災で脚光、企業の備蓄に出荷量増」という記事の中に、神戸市長田区のマッチメーカー「ナカムラ」と神戸の北野にあるマッチ専門ショップ「マッチ棒」とともに僕はマッチのコレクターとしてほんの少し載せていただいた。

神戸の北野にあるマッチ専門ショップ「マッチ棒」については2013年2月9日のblogに書いたのでそちらを参照していただければ、と思う。

記者の方には多くの話を聞いていただき(僕は質問に答えただけかもしれないけれど…)、カメラマンの方には多くの写真を撮っていただき(すごい枚数だったと思う…)、取材にいらっしゃった記者、カメラマンの期待とは別に編集者の思惑があって、僕の記事は記者のかたの書きたかった内容かどうか定かではないけれど、本文で縦9行、写真はカメラマンのかたに撮っていただいた中で最高の一瞬だったかどうかわからない1枚と縦2行の記者のかたの短いコメントがついた形で掲載された。
読売新聞の記者・カメラマンに改めてお礼を申し上げたい。

大きく載るのは恥ずかしいと思っていたので、表面には出さなかったけれど、心拍数のかなりあがる気分で記事を読んだ。

少し補足をしておきたいと思う。

戦前の木でできたマッチ箱に貼られているマッチ・ラベル(燐票)のコレクターに関して言えば、日本にはグラフィックデザイナーで、デザイン事務所「LeftyREX(レフティレックス)」の代表でもある加藤豊さんを越える人はいない、と思う、おそらく。

それでは、戦後の紙(ダンボール)のマッチ箱のコレクターとして、僕を越える人がいないかというとそうでもなく、僕の集めた数の10倍以上の紙(ダンボール)のマッチ箱の収集家だっている。

僕がやってみたいのは、戦後の紙(ダンボール)の中でシリーズ化されたマッチを集めることと、阪神淡路大震災でなくなってしまったり、景気の低迷で姿を消したり、後継者がなく神戸の街から消え去った店の場所とその店のマッチを結びつけるために、現地を訪れ、ゆかりのある方々に話を伺い、記録として残す「マッチをめぐる冒険」とそれを公開できる「私設マッチ博物館」を作ってみるということ。

もちろん、行動力もないし、話を汲み上げることだって得意じゃない。
でも、記録として残さなければ、忘れ去られてしまうモノもある。そして、連続しているはずの時間はどこかで大きな溝を作りだし、街の短い歴史も忘れられていく。

情報と同じで、集めるという行為は少しでもそれを面倒と思わなければ、そして時間さえかければ誰だってできてしまうことだと僕は思う。
問題はそこから始まり、集めたものをどう活用し、どのように公開し、伝えることができるか、だと勝手に思っている。

と、書きながら、中身がなくなって道に捨てられたPETボトルほどの価値にも満たないほど、なにも残していない僕なのだけれど。

新聞記事に関して、1つだけ、父のためにも、母のためにも、書き残しておく。
父はある時、好きだった(と思う)タバコを急に吸わなくなった。理由はわからない。僕がマッチを集め始めてから、そう遠くない日に。

* blog内、全て敬称略です。