カテゴリー
モノ 雑文

前線

前線

「前線」は好きではない。

1924年3月に建設され、1968年、老朽化によって取り壊されることになった高さ90mの「神戸タワー」はかつて神戸一の繁華街であった新開地に繁栄の象徴として建っていたそうだ。
その新開地が往年のように再び繁栄をすることを願って、「神戸タワー」に模した4つのカリヨンを備えた8mの時計台が湊川公園に建てられたのは1985年。

長い雨の時期に入ったとたん、まるで入社式が終わったと同時に休暇届けを出した新入社員のように、雨の日が空席を作る。
時計台を見上げると蒼穹に白い雲が見える。
見上げたところで「梅雨前線」なんて僕には見えない。

「前線」なんて本当は誰にも見えないのかもしれない。
「前線」だと思っていたところは、本当は「前線」ではなかったのかもしれない。

カテゴリー
モノ 雑文

雨のシャワーを浴びながら歌をうたう。

雨のシャワーを浴びながら歌をうたう。
“だが、芸術というのは、多少なりとも生きていくのを楽にしてくれる、いかにも人間らしい手段だ。上手であれ下手であれ、芸術活動に関われば、魂が成長する。シャワーを浴びながら歌をうたう。ラジオに合わせて踊る。お話を語る。友人に宛てて詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できる限りよいものをと心がけること。信じられないほどの見返りが期待できる。なにしろ、何かを創造することになるのだから”

カート・ヴォネガットの「国のない男」については2011年7月9日のblogに少しだけ書いた。「最後の一冊」と題して。
翻訳は金原瑞人、2007年に日本放送出版協会より出版されたエッセイ集。
アメリカでは2005年に刊行された。

のちに、スピーチ原稿、手紙、加えて未発表の短篇などをまとめた本が「最後の作品集」として出版されることになる。

さて、冒頭の「国のない男」から引用した文章にある「芸術」とは学問・宗教・道徳とならぶ文化の一部門といった学術としての「芸術」でもなく、特殊な方法や表現形式により、巧みな技術を駆使して「美しさ」を創造するといったもったいぶったような形式的な意味ではなく、もっと身近にあり、ごく日常的な中に存在しうる手段を意味しているはずなのだけれど(と僕が思い込んでいるだけかな?)、果たして”シャワーを浴びながら歌をうたう。ラジオに合わせて踊る。お話を語る。友人に宛てて詩を書く”といったことが今の時間の流れの中に存在するのだろうか?

それは、どこかの海に浮かんでいる平らな氷の固まりのようなモノで、確かに存在はするが僕には見ることができないのかもしれない。

僕は”できる限りよい”blogを書こうと試みて、それができていないし、”信じられないほどの見返り”も待ち設けたりしていない。
なにしろ、存在するのは未来ではなく、現在と過去なのだから。
ただ、誰かの”何かを創造することに”にどこかでつながっていればいいと思う。

* blog内、全て敬称略です。

カテゴリー
モノ 雑文

静かに、そしてわずかに降る雨

静かに、そしてわずかに降る雨
絶え間なく降り注ぐ陽光の季節が去り、昨日から5月の雨がゆっくりと通り過ぎる垂水の街を通過して、僕は西に移動する。
2013年の5月が抱える5つの水曜日のうち今日は最後の1つ。

水曜日は基本的に仕事をしないのだけれど、急の用件で西明石まで行って1時間ほど仕事をする。
今から最も近い日に西明石の街を歩いたのはいつのことだろう、と思う。
17時の西の空には疾走する低い薄い雲の後ろにクレーターを失った満月のような太陽の形を認める。

白羽弥仁監督の1993年の映画「”She’s Rain”(シーズ・レイン)」にも登場する僕には懐かしい国道2号線沿いに建つ淡いピンク色をしたカフェ「FIESTA(フィエスタ)」を、それより東、僕が幼少の頃にはなかった、日本に上陸さえしていなかった「スターバックス・コーヒー・ジャパン」の「神戸西舞子店」を、そして駅舎のない山陽電鉄「西舞子」駅を車窓から眺めることになる。

JR神戸線と山陽電鉄によって分断され、国道2号線と並行して走る、国道487号線沿いの山陽電鉄の高架壁が懐かしい。

雨は降ることはなく、傘が邪魔になる。

カテゴリー
モノ 雑文

SKYY VODKA(スカイウォッカ)の空き瓶

SKYY VODKA(スカイウォッカ)の空き瓶
もうかなり前のことで、それが冬の断片だったのか、秋のことだったのか、夏に起こったことなのか、僕ははっきり覚えていない。

ふつう、人が倒れる瞬間というのは膝の力が抜けて、足元から崩れるものだと個人的な経験から、僕はそう思っていたのだけれど、僕が降りた駅のホームで、同じ車両の隣のドアから降りた長身の男性はまっすぐに立てた鉄の棒が倒れるように、わずかな折れ曲がりもなく、電車のドアの数センチのところに後ろ向きに倒れ、後頭部に鈍い音を響かせる。

僕は偶然にもその詳細に見ることになってしまったのだけれど、僕はその男性に駆けより、大きな声で話しかける。意識はある。
僕は電車の後方に向かって、叫ぶ。

その駅で降りる乗客は少なく、車両からは誰も降りてこない。
こういう場合、動かすのはよくない(おそらく…)とわかっていたのだけれど、別の危険性を考えて、同じように下車した若い男性と僕とが2人で電車から頭をわずかだけ、遠ざけた。本当に鉄の棒のように重く、そして固かった。

もうすぐ駅員が来るので、この電車はこの駅を出発してもよいか、と駆け寄ってきた車掌が僕に尋ねる。
そんなこと、僕に訊かれてもわかるわけがない。
そっちにはそっちの事情があるのだろうけれど、僕にだって事情はある。発車時間からすると3分遅れだからね。

電車は去る。
その男性は電車を降りたことを覚えておらず、そこがどこであるのかもわからなかった。後ろ向きに倒れたことさえ覚えていない。彼が立ち上がろうとするので、僕はそれを制し、鉄の柱に寄りかからせる。
かなりの時間が経過して、駅員が車椅子を押してやってくる。
状況を説明する。その男性は車椅子に乗ることを拒む。

ただ、それだけ。
質問もされず、名前も尋ねられなかった。僕が殴り倒したかもしれないというのに(殴ったりしていないけれど、本当に)。
そして、僕は駅の階段を下り、改札を抜ける。

「SKYY VODKA」の空き瓶は僕が意図的に漁港のコンクリートの堤防に置いたわけではない。
何日か前の5月のある日に写真に収めた。暑かったのか寒かったのか覚えていない。

「SKYY VODKA」の空き瓶を見たとき、季節だけが抜けたその出来事を思い出した。

カテゴリー
モノ 雑文 映画/展示/講演会

バタフライ・エフェクト

バタフライ・エフェクト

blog「空に補助線を…。」を書き始めて、今日で697投稿になる。
おそらく生きているであろうという実感として書きつづけるblog、過去へ連なるblog。そして、過去の画像。

どういう理由にしても、この雑で、洗練されたところもなく、しかも大人げない文章に付き合ってきてくれている読み手がいてくれることに感謝したい。
といって、700目めの未来のblogになにか意味があって、誰かの役に立つものであるとは思っていない。

僕は基本的にドラマや映画のノベライズという本を読まない。
基本的というのは、例外もあると言うことであり、実際、過去には何冊か読んだことがあるということで、ノベライズされた本に後味の悪い思い以外の感想をもったことがないのは、単に優れたノベライズに出会っていないだけのことなのかもしれない。
だから、ノベライズ・ファンのかたがいらっしゃって、「ノベライズを支持する会」や「ノベライズ・ファンクラブ」というものがあって、「それはとてもひどい偏見である」と説かれることもありえるのだけれど、そこは僕の個人的な好き嫌いの傾向と思って許していただきたい。

「バタフライ・エフェクト」という2004年にエリック・ブレスとJ・マッキー・グラバーが監督・脚本を担当したアメリカの映画があるのだけれど、ジェームズ・スワロウなる人物によってノベライズされ、竹書房より、酒井紀子の翻訳により出版されている。

映画にも興味があるのだけれど、ノベライズにも気になる「バタフライ・エフェクト」。
ノベライズというのは先にドラマや映画が存在して、別の物語になる可能性はほとんどないので、どちらを選択すればよいのか僕には定められず今まで手を出していない作品なのだけれど、こういうものにそもそも二者選択という考え方を持ち込むのは間違っているのかもしれない。

しかし、ノベライズによって、映画で表現できなかったことが行間に表れることはありえるのだろうか?

「バタフライ・エフェクト2」、「バタフライ・エフェクト3/最後の選択」という第2章、第3章が別の監督・脚本家によって制作されていたことを僕は知らなかった。

* blog内、全て敬称略です。