
「ボックスマッチ寸二型(約56mm * 36mm * 9mm)」と呼ばれるサイズのマッチ箱はかつての広島県広島市中区三川町にあったCOFFEE SHOP “コチ(KOCHI)”のもの。
時代は広島市に中区が誕生する以前、高度経済成長期のどこかと推測しています。
マッチ箱では髪に文字を用いるデザインを時々見かけます。
“特賞 三菱の家電用電気用品(8点)
1等 東北一周旅行
2等 2000円の商品券
3等 1000円の商品券
4等 500円の商品券
☆ 資生堂特製オリーブ石鹸(等外景品)を漏れなく進呈
広島専門店会”
広告面を広くする工夫がされたマッチ箱です。
便宜上、「扉付きマッチ箱」としておきます。
「扉付きマッチ箱」には雑誌の綴じ込み付録みたいなワクワク感があります。
扉を開くと「特等 三菱の家電用電気用品(8点)」が描かれています。
過去にこの「扉付きマッチ箱」に記された広告にワクワクした人がいたのだと思います。
どのような抽選方法だったのでしょうね。
第2次世界大戦以降の日本における最初の登山ブームは1956年から1970年代半ばにやってきます。喫茶店として「山小屋」という店名が珍しいというわけではありません。
山小屋のような喫茶店については、鈴木文代の著書「戦後と喫茶店」に”山に縁のある喫茶店”にうまくまとめられているので、そちらに譲ることにし、箱の状態では認識しにくい「小」もこうやって平面にしてしまうとすんなりとわかってしまうのです。
電話番号もありませんね。今ほど商圏が広くなかった時代ともいえるマッチラベルなのだと思います。
blog内、全て敬称略です。
「ポルトルージュ(Porte Rouge)」は広島県広島市中区新天地にあったレストラン。
“Porte Rouge”はフランス語。日本語にすると「赤い扉」。今、その場所に「ポルトルージュ(Porte Rouge)」は存在しない。
赤い扉の店舗だったのか、僕にはわからない。
広島宝塚劇場ももうない。
1951(昭和26)年に「新天地劇場」としてオープン。1952年8月に「広島宝塚劇場」、1971年にレジャービル「広島宝塚会館」、2011年8月31日で閉館。
跡地に建てられたのは商業複合ビル「広島東宝ビル」。「広島ゼロゲート(ZERO GATE)」と「広島ワシントンホテル」が入居する。
「ゼロゲート(ZERO GATE)」はパルコの新たな事業モデルだったのか(神戸・三宮にもあります)。
僕はマッチラベルという形でしか「ポルトルージュ」に出会うことができなかった。
“帽子と洋品「東京堂」”は”広島本通り”に本店、”流川銀座”に支店があったということになりそうです(ともに現在の広島県中区)。
webの検索結果に広島県三次市にある「東京堂ししゅう帽子店」という店を見つけることができますが、何か関係があるのでしょうか。
“広島本通り”は1930(昭和5)年ごろに商店街が形づくられますが、1945年8月6日の被爆により壊滅。その後、「広島本通書商店街」として復興したとありました。
“流川銀座”に商店街が誕生するのは1947年ごろとされています。
たるみ燐寸博物館に寄贈したご家族の生活圏と時代から推測すると「戦後」と呼ばれる第2次世界大戦後の広島ということになります。
このマッチラベルに描かれているのは復興から高度経済成長期へ向かっていく日本の姿なのかもしれません。
大切に保管されていたマッチのラベル。かつては経木のマッチ箱が身にまとっていたのでしょう。