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マッチ・コレクション/篠崎インキ製造株式会社(ライトインキとチャムピオンインキ)

マッチ・コレクション/篠崎インキ製造株式会社(ライトインキとチャムピオンインキ)
いつものことながらハッピーエンドではない。

たるみ燐寸博物館に展示されている「篠崎インキ製造株式会社」の2つの広告マッチラベル。
僕は「チャムピオン」、「インキ」という表現やイラストが気に入っていて、たるみ燐寸博物館をオープンさせた当初から目につきやすい場所に展示してきた。
「筆記用」と「万年筆用」とは同じように思えるが、おそらく前者は「つけペン」用、後者は文字通り「万年筆」用のインクを意味しているのだと思う。

文具ファンのひとりとして僕が篠崎インキ株式会社について調べ始めたのは2015年6月10日のことで、その一週間後の6月17日にあとはまとめ上げるだけというところまでたどり着いていたのだけれど、今日までのおよそ1年と1か月、その内容を公開しなかったし、できれば公開しないまま終わらせるつもりでいた。
篠崎インキ株式会社に関するほとんどの記録が図書館と裁判資料に残っているので、改めてこのblogにに残す必要がないと思ったからかもしれない。

1918(大正7)年、合名会社として篠崎インキは誕生した。1919(大正9)年に篠崎インキ製造株式会社となる。本社(本社営業所及本工場)は東京市本所區となっているから、現在の東京都墨田区あたりだ。
「文具の歴史(著:田中経人、1972年、リヒト産業)」に篠崎又兵衛の指導の元、1884(明治17)年にインキの製造発売、品質改良をはかって「万年筆用ライトインキ」を発表したことが記されている。

主たる販売は「チャムピオンインキ」であったが、業界では他社を圧倒し続けていたが、1923(大正12)年の関東大震災の前後から売り上げは低下。関東地区のおいては筆記用「チャムピオンインキ」のシェアをライバルの万年筆用インクに押され、篠崎も万年筆用の「アカデミーインキ」「ライトインキ」を開発し、主力商品の生産体制を変えていく。
関西圏に販路をもとめ、大阪市東区淡路町の「八百屋町(やおやまち)筋」に篠崎インキ西部販売所を1933(昭和8)年に設立する。
大阪市東区は1989年2月13日に南区と統合されて中央区となるが、「八百屋町筋」は今も残る。

1952(昭和27)年11月9日の読売新聞に”老舗ライトインキの社長一族が失踪”という見出しが載る。「ライトインキ」の商標で知られる篠崎インキ製造株式会社の社長夫妻と長男が相前後して失踪した、という内容だ。
1952(昭和27)年11月12日の読売新聞に続報が載る。”社長の死体上る”。篠崎又兵衛の水死体が発見されたことを伝える記事の内容。経営不振に陥っていたことが報じられる。

1939(昭和14)年に篠崎インキ製造株式会社の篠崎又兵衛が編集・出版した「インキ読本」というインキに関する出版物は国立国会図書館に保管されている。

たるみ燐寸博物館に展示されている「篠崎インキ製造株式会社」の「チャムピオンインキ」と「ライトインキ」 の広告マッチラベル。

“文化はライトの一滴より生れる”

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