夏に後る。

夏に後る。

数量化して表現できるものではないのだけれど、決して多くはない分量の秋を今日、感じました。
夜にはコオロギの声がきこえてきたりするけれど、まだ噴水の水を眺めても、その水に触れても寒いとは感じません。

コオロギの親戚にキリギリスがいます。
どれだけ近い親戚であるのかは昆虫学に詳しい人に確認して下さい。

イソップ寓話に収められているオリジナル版では「アリとセミ」、あるいは「アリとセンチコガネ」というタイトルの「アリとキリギリス」の話の教訓って何だったのだろうかと、秋が近づいてくるたびに僕は考えます。

そこにはなんの教訓もないんじゃないかと。
そこにあるのは書き手が登場人物(この場合、「人物」じゃないですね)の予め定められた結末に対して、登場人物に台本通り、忠実に演じることを約束させることができる、書き手の身勝手さなのではないかと思うのです。

「アリ」は冬を越して、生き延びるということを予め知っているわけです。
「キリギリス」は夏にヴァイオリンを奏で、冬にアリから食べ物を分けることを拒まれ、飢え死んでしまうことを知っているんです。
台本に沿って、彼らは忠実に演技をしているだけなんです。

「アリ」が食べ物を蓄えた「巣」は予測困難な1時間に60mmもの雨に崩れることもないことを、アリクイに襲われることもないことを、そして夏に「キリギリス」に出会い、冬に再び会うことを知っています。
「キリギリス」は夏にヴァイオリンを奪われることもないことを、夏の暑さに倒れることもないことを、夏に「アリ」と出会い、冬に再び会うことを知っています。

彼らは予め演じなければならない役割をきちんと演じるだけなんです、ね。
物語とはそういうものです。
そこには教訓なんてありません。

「そういう解釈をする人っているのかな?」的な全くどうでもいいような今日のblogです。
いないよね…。

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