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時の流れはいつも哀しいもの

時の流れはいつも哀しいもの/JR神戸駅南口

2012年の8月が終わろうとしている。
1か月単位で表示されているカレンダーの1枚がめくられ、そして9月があらわれる。
多くの人にとって通過点である8月31日はそれ以外の少数の人と僕にとっても等しく通過点であってほしい。

神戸に風がやや涼しさを運ぶのは雲が多かったせい?
それとももっと別のなにか?
木々の枝や葉が、空の雲が天気の急激な変化を予感させる。

僕には風をつかみ取ることはできない。
どうか気づいてよ。

夜を待ち、今日集めた哀しいモノをひとつひとつ、燐寸で火をつけて、燃やしてしまう。

“時の流れはいつも哀しいもの”

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ねえ、僕はキミの前からいつ消え去ればいい?

ねえ、僕はキミの前からいつ消え去ればいい?

土曜日の夜に書いて、月曜日の朝に読み返すと、恥ずかしくなるような手紙を書いた経験が過去の僕には幾度となくある。
夜が持つ独特の波長を借りて、それは独白的で、自分勝手で、うっとうしくって、煩わしくって、厄介なモノだった。

今はそのようなことは僕の管理下で、冷静に処理しているつもりだけれど、そう言い切れるかどうか確信はない。

切手を貼って投函する手紙なんて、もうほとんど書かないけれど。

今日は風に立ち向かうように「蜉蝣」が部屋の窓ガラスにつかまっていたよ。
夕焼けは今日も綺麗だったよ。

ねえ、僕はキミの前からいつ消え去ればいい?

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これまで積み上げてきた努力や成果は無になるか?

ある小さな病院の待合室での話。

「私のつれあいなんて、心臓の手術を3回もしたのよ」と初老の女性。
「3回も?」とその友達。
「そう、心臓の血管の2か所にステンド…。」と彼女。「ステンドグラスが入っているのよ」

正しくは「ステント(stent)」です。
「ステンドグラス」が入っていたら、痛いですよ。

さて、2012年1月2日のblogに書いたように、交差点の信号待ちや駅のプラットホームや電車やバスの中で、頻繁に道を訊ねられるのと同じくらいに、病院の待合室で話しかけられます。
病院では名前を呼ばれるまで待たなければいけないので、インナーイヤー型やカナル型や耳掛け型のヘッドフォンで音楽を聴いていられるわけではないので、本を読んだり、雑誌を眺めたりして、診察される順番を待っているわけだけれど、やはりそれでも、話しかけられる。

問題は「道を訊ねられる」ことより「個人の事情や病院の待ち時間の長さや受付の対応などについて、聞かされる」ところにある。
話しかける内容の緊急度や重要度はどちらも個々にはほとんど変わらないのかもしれないけれど、病院で見知らぬ人の話を聞くということは僕にとってできるだけ避けたいことなのです。

ある小さな病院の待合室での話。

「あなたはどこが悪いの?」と歳を重ねた女性に話しかけられる。
「さあ、あまりよくわからないみたいなんです。そいういうわけで、病院に来ているです」と僕。
「元気そうに見えるのにね」とその女性は言う。

「あんたはいつからここに通っている? 俺は阪神淡路大震災の頃からだけど」と年齢のわからない男性が話しかけてくる。
「僕もそれなりに…」と僕は答える。
「大変だよな。俺はこのよくわからない病気で人生を棒に振ったよ」とその男性が言う。

僕は病院の待合室で議論するタイプではないので、言いたいことがあったとしても、差し障りのない定型文的、模範的回答に徹します。

「確かに防戦に終始するような力が小さな人間にのしかかれば、誰だって、程度の差こそあれ、ダメージを受けます。そこには新しく意味づけされた過去とこれから背負うであろう不確定な未来に対しての不安があることは認めるのですが、これまで積み上げてきた努力や成果は無になりますか? 世の中って偶然と突然で成り立っていると僕は思いますし、なにが起こるか誰かが予想できるような未来は存在しませんよ。不確定な要素は常に存在するんです。過去に対して、ある時期、逆らえない事情に出会ったからといって、それ以降に通過した時間を無意味なモノと解釈することはどこかしら、納得がいかないところがあります。そりゃ、誰も理解できないくらい、表現すらできない孤独で耐えがたい事情と日々でしょう。僕だって、あなた同様、経済的に心を痛める日々です。でもね、現在の刻一刻と過ぎ行くこの今という一瞬は過去があったからこそ、存在しているわけです。たまたま、運命が突然変異したみたいなものですよ。運命があるとすればの話ですが」

といった自分でも収拾のつかない込み入った話はしない。

非現実的な希望であることを前提に述べるとして、防戦に終始するような力で今までと同じように1日を過ごすことができなくなった多くの人に、ささやかだけど、誰か優しく手を差し伸べていただきたい。

2012年の8月最後の水曜日に、ただただ、それを心から激しく思うのです。

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国語辞典のページを繰る/「新潮 現代国語辞典」

国語辞典のページを繰る/「新潮 現代国語辞典」

昨日のblogにも書いた「新潮 現代国語辞典(1985年、新潮社)」。
国語辞典の代表からは大きく外れるものの、目指す語を見つけるためではなく、日本語の多様性を確認するために、時間があると眺めている。

2000年に編集:山田俊雄、築島裕、白藤礼幸、奥田勲という1985年の第1版と同じ「布陣」で第2版が出版されている。

“小辞典はあるが、調査に基づく出典を示し、必要なものには具体的な用例を掲げることに努めた”

この「新潮 現代国語辞典」の「編集方針」にはそのように書かれてる。

ただ、僕はこの国語辞典を購入当初はひどく扱いにくい辞典として捉え、大学生の頃は実家にある「広辞林(三省堂)」を使っていた。
若干の慣れが必要と言えば、「必要な」国語辞典なのかもしれない。

“見出しの字体・用字は、アンチック体の平仮名と片仮名を用い、平仮名は和語、片仮名は漢語、または外来語であることを示した”

語句が「50音順」ではなく、「いろは順」に並んでいる、というわけではなく、「とりな順」に並んでいるというわけでもなく、一般的な辞典と変わりなく、「50音順」なのだけれど、

例えば、1985年版「新潮 現代国語辞典」の793ページ3段あるうちの1段めに

たやす・い[((容((易い・た((易い]
「タ ユウ[((大((夫・太((夫]
たゆた・う[揺(蕩う・((猶((予う]
たゆみ[弛(み)・懈(み)]
たゆ・む[弛む・(懈む]
タ ヨウ[他用]
タ ヨウ[多用]
タ ヨウ[多様]
タ ヨク[多欲・多(慾]
た より[頼(り)・[便り]・便]
たよ・る[頼る・((便る]
たら[鱈・((大((口((魚]

という平仮名と片仮名、独特の表記に一種受け入れがたいものを感じていた。
今はもう慣れてしまって、違和感はないのだけれど、かなり個性的な気がする。

厚紙でできた辞典の箱の背表紙は「日焼け」してしまっているけれど、個人的には長く使っていきたいと思う国語辞典です。

* blog内、全て敬称略です。

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こんなに長い読書の不在

こんなに長い読書の不在

昨日のblogに書いた「JR神戸線の車窓から見る2012年8月の須磨海岸」は一日にして、広く汚れた白い漂流物が波に揺られ、海水は緑色になる。
実は昨日の画像にも海に「緑色」の箇所があったのだけれど、これは列車の窓に採用されている「熱線吸収ガラス」によるものだと思い、パーソナル・コンピューター上で、ソフトウェアを使って、やや暗めに処理し、緑の部分を見えないようにしたのだけれど、実際には今日の海の汚れの前兆だったんだね。

さて、「長い読書の不在」である。
2012年7月23日のblogにポール・オースターの1989年の作品「ムーン・パレス」をやっと読み終えたと書いて以降、1か月以上、小説を読んでいない。

時々、「読書」から遠ざかることはある。
理由はそれぞれ異なるのだけれど、「まあ、そんなときもある」という程度のこと。
読みたい本はたくさんある。

今は「新潮 現代国語辞典(1985年、新潮社)」のページをその時の気分次第でめくり、眺める。
2012年の8月が終わるまで、おそらく、「長い読書の不在」が続く。