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エディシォン・ドゥ・パリ編/パリのオフィススタイル

エディシォン・ドゥ・パリ編/パリのオフィススタイル(表紙)エディシォン・ドゥ・パリ編/パリのオフィススタイル(26-27ページ)

2012年の4月も今日が最終日。
曇り空に始まり、時折、雨の小さな粒が空から落ちてくる。

新オフィス兼店舗の内装イメージが全く立たないので、いろんなショップを見て歩いて参考にしてみたりしたけれども、どうも自分のココロに素直に納まってくれるようなイメージが見当たらない。

というわけで、「エディシォン・ドゥ・パリ編/パリのオフィススタイル(アシェット婦人画報社、2008年)」を借りてみた。

“オフィスという言葉を聞いて連想するのは何?
変哲もない近代ビル? PCと机が並んだ無機質な内装、はたまた眠い目をこすりながら毎日通う場所?”

という問いかけに始まり、

“…個性的な空間。エレガント、ミニマリスト、アーティスティックなど、それぞれのオフィスがこだわりや企業ポリシーを持ってスタイルのある快適な環境を作りだしている”

刺激的で、斬新でココロがふわりと浮いてしまうようなオフィス空間がこの本の中で展開される。
うーん、ここまではできないけれど、快適な空間で、自分もお客様もくつろげる空間にしたいなとガチガチに固まった頭脳と磨り減った歯車を手を尽くして回転させながら思う。

とりあえずは、仕事をしなくちゃ、ね。

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太陽の休眠/未来のことなんて誰にもわからないんだ

太陽の休眠/未来のことなんて誰にもわからないんだ

朝、目覚めると必ずそこにある太陽に関する報道は大規模な太陽フレアや2012年5月21日に観測される「金環日食」だけではない。

2012年4月20日の朝日新聞大阪本社版夕刊に載った”太陽もうすぐ「冬眠」?/地球に低温期到来か”という記事を見つけていたのだけれど、blogに載せる機会を逸していた。
僕にとっては、夕刻の空を染める太陽が好きなだけに気になる。

“太陽の周期的な活動に異変が起き、「冬眠」に入って地球の低温期が到来する可能性があることがわかった”という見出しの記事。

情報源は「国立天文台」や「理化学研究所」などの2012年4月19日の発表にあるようだ。

“太陽には南北両極に正と負の極があり、約11年周期で(正と負が)同時に反転する。2013年5月に次の(正と負の極)反転が始まると予測されていたが、太陽観測衛星「ひので」で観測したところ、北極では約1年早く(極の)反転に近づいていることがわかった。南極は(極の反転は)それほど変化がなかった。
このペースだと、2012年5月に北極のみが反転し、太陽の赤道付近に別の極ができる「4重極構造」になるという”

*()内は補足した

これだけでは僕には「それでどうなの? だからどうなの?」的な理解力しかないのだけれど、過去の記録から読み取ると太陽黒点にも異常が観測されているようで、太陽黒点が顕著に少ない時期「マウンダー極小期」と呼ばれる長期間に渡って極めて太陽が不活発な時期に突入するらしい。

通常の極小期は11年周期。太陽自体にとっての季節変化というわけで、僕たちが生活していく上では特別に問題にすることもない。

異常に長い極小期は17世紀ににも似たような現象があって、太陽はその後約70年間暖かな光を地球に届けられなかったそうだ。
17世紀に世界がどんな状況にあったのか、僕は即座には答えられない。10年前のことだって僕にははっきりとしないんだから…。

まあ、「統計学的な見地から判断すると」と言うわけなんだろうけれど、本当に休眠するなら困るな。寒いのは苦手だから、さ。

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水路に浮かぶのは春の落ち葉と4月の太陽

水路に浮かぶのは春の落ち葉と4月の太陽

朝、南に見える海の上に黄色の雲のような帯がはるか遠くに見えた。昨夜のうちにタクラマカン砂漠やゴビ砂漠やウランブハ砂漠から飛来した黄砂が雪のように降り積もったのだろうか?
気象庁の黄砂情報によるとその時間帯に神戸地区では黄砂はほとんど観測されていない。

海から蒸発する水に太陽に光が反射して、黄色い帯を作り出したんだろうか?

とにかく、僕は昨夜から朝へとひどいアレルギー症状を示しながら、そしてティシュ・ペーパーと点眼薬とを武器に今日1日を戦いのごとく過ごす。

浅い水路に落ちた枯れ葉が身を寄せるようにいくつか集まり、春の陽光が降り注ぎ、その太陽を映し出し、水底に影を作り出していた。
落ち葉の周りには光の粒が美しくきらめいている。

1989年に福武書店から発行された「白河夜船」「夜と夜の旅人」「ある体験」の3篇が収録された吉本ばななの小説集「白河夜船」に次のように書かれている。

“この世にあるすべての眠りが、等しく安らかでありまうように”

僕の眠りはアレルギーのために安らかじゃないだろうけれど、僕以外の全ての眠りが、等しく心穏やかでありますように。

「お・や・す・み・な・さ・い…」

* blog内、全て敬称略です。

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繰り返されし紡ぎ出される詩のごとき、言葉の営みに、心を傾けよ

繰り返されし紡ぎ出される詩のごとき、言葉の営みに、心を傾けよ

使われる言葉のごとく、春に咲く花、緑に色づく葉ありて、

対に伝えられずに終わった言葉のごとき、春に枯れ落ちる花と枯れ葉あり、

音の集まりは空気の振動、水に漂う落ち葉のごとく、たどり着くことのできる場所もわからず、

フェルマータのごとき波間に差し込む光に、影をつくる、

複屈折した光と水の中で、その存在は美しくも鮮やかで、

しかし、はかなく、気づく人少なく、

日暮れと共に、忘却という、暗闇に消える、

日々、繰り返されし紡ぎ出される詩のごとき、言葉の営みに、心を傾けよ、

ささやかでも、愛はその中にある

きょうも、無駄に、日本語とあそぶ

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DAYBREAKERS(デイブレイカー)/ヴァンパイアの憂鬱と人間の悲劇、そして…。

DAYBREAKERS(デイブレイカー)/ヴァンパイアの憂鬱と人間の悲劇、そして...。
最近、ゾンビ映画やヴァンパイア映画が個人的に飽和状態になっている中、イーサン・ホーク、ウィレム・デフォー、サム・ニールが出演する2008年製作、2010年日本公開のアメリカ・オーストラリア合作映画「デイブレイカー(DAYBREAKERS)」をレンタル・ショップで借りた。

ストーリーについてはまだ観ていない人のためにここでは全く触れないのだけれど、この映画の特徴はヴァンパイアの立場から描いたことにある。

最近、思うことの一つに、ヴァンパイア映画やゾンビ映画において、人間はヴァンパイアやゾンビに襲われると、一般的に逃げるという選択をするのだけれど、ヴァンパイアやゾンビになるという選択肢はないのか、ということがある。

なぜ、ヴァンパイアやゾンビになることを避けなければならないのか?
それは人を襲わなければならないという心の痛みに耐えられないから、それとも人間としての人類を滅亡させたくないから、または自分の醜態をさらしたくないから、なのか?

この「デイブレイカー」を観ていると、ヴァンパイアにしろ、人間にしろどちらの側も苦労が絶えないんだな、という感想をもつ。
ヴァンパイアになっても将来が憂鬱だし、人間であることも耐え難いこと。
この映画の構成は何かの縮図を思い起こさせるのだけれど、うまく思い出せない。

さて、僕の最大の疑問は2012年公開予定の映画「アベンジャーズ(The Avengers)」やデヴィッド・クローネンバーグ監督・脚本の1981年のカナダ映画「スキャナーズ(Scanners)」 やディーン・R・クーンツ原作の映画「ウォッチャーズ(Watchers)」のように日本版タイトルはどうして複数形「デイブレイカーズ」にならなかったんだろうということ。

「デイブレイカー」と「デイブレイカーズ」では随分と印象が違ってくるような気がするのは僕だけなのか…?