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雑文

偶然がいくつ重なろうとも、果てしなく必然に近づくだけ

偶然がいくつ重なろうとも、果てしなく必然に近づくだけ
“幸運ってのは、運命がきみを見逃してくれたってことさ(フィリップ・K・ディック「パーキイ・パットの日」、翻訳:汀一弘、1983年、サンリオSF文庫)”

サンリオSF文庫版では「ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック I」に、早川文庫版では浅倉久志訳で「パーキー・パットの日々(ディック傑作集1)、1991年」「ペイチェック ― ディック作品集、2004年」に収録されている。

夕刻、3月ももうその責務を終わろうとしているにもかかわらず、冷たい風が冬の寒さを思い起こさせるように吹き抜ける三井アウトレットパーク「マリンピア神戸」の西のある場所で、陽が沈んでいくのをゆっくりと眺める。

運命は存在するかもしれない、と僕は考える。
残念ながら確認するすべはないのだけれど、ね。

感覚器官からカラダに入り込んだ情報にまずココロが意味より先に反応する。
脳科学がいかに進歩しようと、意味はココロの反応より後付で僕たちを追っかけてくる。
そう、ココロを探すか、意味を探すか? それともどちらを探すことも無意味なのか?

厄介なことに意味なんて、時代と共に変化するし、個々によって、捉え方も価値も異なる。

必然は存在しない。世界は偶然で支配されている。
僕の祖父は偶然が3回重なれば、それは必然かもしれないと言った、らしい。
僕は偶然がいくつ重なろうとも、果てしなく必然に近づくだけで、必然にはなりえないと言った。
地点Aから地点Bへ行くにはその中間点を通らなくてはならない。そして、さらに地点AからB地点の中間点を、そしてまた、地点Aからその中間点の中間点を…、という具合に永遠に同じことを繰り返し、B地点に達することはないというゼノンのパラドックス「二分法」を数学的に解釈しなかった場合と同様に、永遠に必然にたどり着くことはない。

ねえ、必然なんて存在しないんだよ。