カテゴリー
雑文 映画/展示/講演会

大森一樹監督作品/風の歌を聴け

大森一樹監督作品/風の歌を聴け/村上春樹

大学の中央講堂で同じゼミの友達と1981年の大森一樹監督作品である「風の歌を聴け」という映画を観た翌日、僕はその友達を誘って、三宮にある営業しているのかしていないのかもわからないようなバーへ行った。
階段には「風の歌を聴け」の色褪せたポスターが貼ってある。

店内は薄暗く、窓際にピンボール・マシンが1台、時代に忘れられたように寂びしげに置かれている。

カウンターに座った僕たちは店内を見渡し、ここが映画「風の歌を聴け」でジェイズ・バーのロケに使われたバーであることを改めて確認する。
バーを取り仕切っているのはジャズサックス奏者の坂田明ではあるはずはなく、僕たちより年を重ねた女性だった。
彼女が微笑むのを僕は見たことがない。
僕たちはコロナビールを注文し、瓶の中にカットされたライムを押し込み、飲む。

僕は時をおいて、「ピンボールをしてもいいですか?」と訊いてみる。
「残念だけど、故障中なんです。なかなか直してくれないので」と彼女。
「じゃあ、次に来るときまでに直しておいてくださいね」と僕。
しかし、僕が再び訪れた時も、それ以降に立ち寄った時にも、ピンボール・マシンはライトを点滅させているだけで、いつまでも故障のままだった。

僕はこの映画を村上春樹の作品を大森一樹の解釈の下に、彼流のアイデアを膨らませた、小説とは異なる別の作品として評価している。
「僕」を小林薫、相棒である「鼠」を日本のテクノ・ポップ・バンド(本当はそうではないのだけれど…)「ヒカシュー」でボーカルとテルミンを担当している巻上公一が演じている。

“自分のすぐ足下の土を掘れるか?”

大森一樹は映画の中で、このように登場人物に語らせる。

“「なんだか不思議だね。なにもかもが本当に起こったことじゃないみたい」
「本当に起こったことさ。ただ消えてしまったんだ」
「戻ってみたい?」
「戻りようもないさ。ずっと昔に死んでしまった時間の断片なんだから」
「それでもそれは温かい思いじゃないの?」
「いくらかはね。古い光のように」
「古い光? ふふっ、いつでもあなたのボーナス・ライトで祈ってるわ」”

村上春樹の「風の歌を聴け」にはこのような場面はない。「1973年のピンボール」に出てきそうな会話である。

映画が原作に忠実である必要はないと僕は思う。
まったく別の法則が働く世界なのだから。
こんな映画があってもいいと、僕は思う。

“文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ(村上春樹「風の歌を聴け」、1979年、講談社)”

* blog内、全て敬称略です。