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2012年3月の終わり/マリンピア神戸

2012年3月の終わり/マリンピア神戸

強い風と雨に始まる。
朝の空は厚い雨雲に覆われ、低空を濃い色をした雲の固まりがいくつもいくつもいくつも東に流れていった。
そんな低空を流れる雲のごとく、神戸空港へ向かう飛行機は機体を低空にしていつもより北寄りに飛行する。

しばらくすると、風の強さはやや和らぎ、雨も小降りになって、空は複雑な姿に変わる。

雨が止んだかと思うと、再び、降り始め、また止んではほんの少し降っては止む気まぐれさに翻弄される。
風も目覚めたように強くなり、安い価格の傘がその骨をいくつも折り曲げ、その風に持ち運ばれたのか、持ち主も知れず、道に無残な姿で置き去りにされる。

午後もいくらかの時間を経過すると、強い風に多くの雲が押し流されてしまったかのように、大きく青い穴を開けた天空に月が見える。飛行機が雲で空に補助線を描くこともなくその月を横切っていく。
垂水に吹く風は冷たく、夕刻の人々の足はまるで何かから逃れるように早く、絶好の夕焼け鑑賞日和であるにもかかわらず、三井アウトレットパーク「マリンピア神戸」の西にある広場の椅子に腰を掛けて夕陽を眺める恋人たちもいない。

夕陽が様々なモノに公平に長い影を作り出す時間。
同様に時間も長く引き延ばされたかのように、ゆっくりとした感覚のコートを身にまとい、オレンジ色に染まる西の空は長い時間、垂水の街の西にあって、僕たちを照らしていた。

そうやって、2012年3月の終わりに近づいていく。

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電車の吊り広告に惹かれて、「オランジーナ」を買う

電車の吊り広告に惹かれて、「オランジーナ」を買う

甘味料を含んだ炭酸飲料はコーラ以外にほとんど飲むことはなく、ほとんどの場合、炭酸水であることに徹した「炭酸と水」だけでできた発泡ミネラルウォーターを買うのだけれど、今日、遅延するJR神戸線の車内に吊ってある広告を見て、なぜだかこの「オランジーナ」を3本買った。

何に惹かれたにしろ、僕の心に購入を促す信号の明滅が生じたわけである。

フランスのカフェで愛され続けている(らしい)「オランジーナ」は1936年にブランドとして誕生し、ベルナール・ヴィルモが手がけたポスター(イラスト?)がボトルの横に印刷されている。
ボトルに印刷されたイラストには「Villemot(ヴィルモ)」の署名が印字されている。

「オランジーナをより楽しむ秘訣」として

“飲む前にゆっくり
1回逆さにして
果実分を
混ぜること!”

とある。

「ジューシーな果実感」と「すっきり微炭酸」の組み合わせと特徴のあるボトル・デザイン。

たまに飲む、また気持ちを少し転換したいときにはいいかもしれない。
でも僕にはやっぱり控えめな主張をする発泡ミネラルウォーターが向いている。

そうそう、学生の頃、あるバーで「ペリエ(Perrier)」を注文したら、「ただの炭酸水ですよ」というかなり迷惑そうな答えが返ってきたことがある。
「ええ、構わないんです」と答えたけれど、ね。

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偶然がいくつ重なろうとも、果てしなく必然に近づくだけ

偶然がいくつ重なろうとも、果てしなく必然に近づくだけ
“幸運ってのは、運命がきみを見逃してくれたってことさ(フィリップ・K・ディック「パーキイ・パットの日」、翻訳:汀一弘、1983年、サンリオSF文庫)”

サンリオSF文庫版では「ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック I」に、早川文庫版では浅倉久志訳で「パーキー・パットの日々(ディック傑作集1)、1991年」「ペイチェック ― ディック作品集、2004年」に収録されている。

夕刻、3月ももうその責務を終わろうとしているにもかかわらず、冷たい風が冬の寒さを思い起こさせるように吹き抜ける三井アウトレットパーク「マリンピア神戸」の西のある場所で、陽が沈んでいくのをゆっくりと眺める。

運命は存在するかもしれない、と僕は考える。
残念ながら確認するすべはないのだけれど、ね。

感覚器官からカラダに入り込んだ情報にまずココロが意味より先に反応する。
脳科学がいかに進歩しようと、意味はココロの反応より後付で僕たちを追っかけてくる。
そう、ココロを探すか、意味を探すか? それともどちらを探すことも無意味なのか?

厄介なことに意味なんて、時代と共に変化するし、個々によって、捉え方も価値も異なる。

必然は存在しない。世界は偶然で支配されている。
僕の祖父は偶然が3回重なれば、それは必然かもしれないと言った、らしい。
僕は偶然がいくつ重なろうとも、果てしなく必然に近づくだけで、必然にはなりえないと言った。
地点Aから地点Bへ行くにはその中間点を通らなくてはならない。そして、さらに地点AからB地点の中間点を、そしてまた、地点Aからその中間点の中間点を…、という具合に永遠に同じことを繰り返し、B地点に達することはないというゼノンのパラドックス「二分法」を数学的に解釈しなかった場合と同様に、永遠に必然にたどり着くことはない。

ねえ、必然なんて存在しないんだよ。

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ニック・ホーンビィ/ハイ・フィデリティ

ニック・ホーンビィ/ハイ・フィデリティ

“レコードの世界は、ぼくが住んでいる世界より、優しく、薄汚くて、暴力的で、安らかで、彩りがあって、くだらなくて、危険で、ずっと愛にあふれている。歴史があり、地理があり、詩があり、そのほかに - 音楽自体もふくめて、学校で学んでおくべきだったものが、数え切れないほどある”

ニック・ホーンビィの1995年の作品「ハイ・フィデリティ(翻訳:森田義信、1999年、新潮社)」の主人公はこのように語る。

舞台はロンドン。
「ほとんど注釈に終始する訳者あとがき/森田義信」には114個の注釈が書かれている。
この注釈だけでも充分でないほど、登場する話題は様々な映画・音楽・ミュージシャン・アーティスト等、広い分野に及ぶ。

“こんなこと・・・・・・どこか・・・・・・どう考えてもおかしい。絶対に、おかしい。以前はなんの問題もなかったことがコントロール不能に陥ったとき、人々は「おかしくなった」という言葉を使う。「民主主義がおかしくなってしまった」という具合だ。今ぼくはそんな表現を使いたいと思っているのだが、いったいなにがおかしくなってしまったのか、はっきり指摘できずにいる”主人公「僕」の物語で、彼はロンドンでいっこうに儲かる気配のない中古レコード・ショップを営む。

その「僕」が幸運の最高の確率で、ある女のコを好きになって、いっこうに進展しない恋愛に身動きがとれず、出口を探して模索する物語といってしまえば、もうこの作品に対する愛着もなんにもないように思われてしまうので僕としては大いに困るのだけれど、いや、それはそれで、だれかに迷惑をかけるよりかはましだ、とも思ってしまう。

まあ、この小説の最大のポイントは

“魅力的な人とそうじゃない人は、どこがどうちがうか(ニック・ホーンビィ「ハイ・フィデリティ」、翻訳:森田義信)”

ということにあるのだろう、と勝手に思っている。

スティーヴン・フリアーズ監督によって、2000年にジョン・キューザックを主人公にキャスティングして映画化されている。
映画を先に観たのか、小説を先に読んだのか曖昧なのだけれど(たぶん、小説を「先」に読んだ。おそらく…)、小説ではロンドンを舞台に、映画ではシカゴと違っているものの、小説も映画も共に僕の個人的な感覚にはぴたりと収まるモノだったことを記憶している。

今日の午後は空が突然裂けて、光を放ったり、裂け目から大粒の雨が短時間だけ落ちてくる神戸でした。

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かつてここには砂浜があった/垂水の防波堤跡

かつてここには砂浜があった/垂水の防波堤跡

この写真を撮った場所はかつて砂浜だった。僕の店舗から南へ徒歩で1分もかからずして、防波堤の跡を見ることができる。
本当に小さな砂浜があって、ここから少し西へ行けば、記憶に曇ったがらガラス越しに見た光景のようで定かではないが、海水浴シーズンに、たった1軒だけ「海の家」が建てられた。
僕は高校生、大学生の夏に、しばしばここを訪れ、音楽を聴きながらここからぼんやりと海を眺めた。

今は埋め立てられ、駐車場となり、三井アウトレットパーク「マリンピア神戸」へ続く道路と遊歩道の一部が存在する。

壁の上部を湾曲させたオーバーハングの形状が、かつてこれが防潮堤だったことを示している。防波堤と防波堤の間には砂浜にでるための通路があり、水門の跡が残っている。

埋め立てられるまでは台風や強風の日には高波が海岸線に林立する家々に被害をもたらした。

須磨から大蔵海岸辺りまで続いた海岸線にあったかつての防波堤。
垂水近辺の海岸線では防波堤はこういう形でしか残らなかったけれども、記憶には留めておきたい。

かつてここには砂浜があった。