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Mark Isham(マーク・アイシャム)/Castalia(カスタリア)

Mark Isham(マーク・アイシャム)/Castalia(カスタリア)
1988年に「Virgin Records」からリリースされたMark Isham(マーク・アイシャム)のアルバム「Castalia(カスタリア)」は僕が買ったMark Ishamの初めての作品です。

マーク・アイシャムというミュージシャンの作品に最初に触れたのは2011年9月17日のblogにも書いたように「監督:アラン・ルドルフ/メイド・イン・ヘブン」のサンウドトラックの一部を担当したことによるのだけれど、その「メイド・イン・ヘブン」のサウンドトラックを探したところ、テープ版しかも海外の中古市場でしか入手することができなくて、諦めた覚えがあります。

この「Castalia」というアルバムはレンタル・レコード・ショップで借りてカセット・テープに録音していたのだけれど、所有しているカセット・テープに録音した音源をすべてCD-DA化する過程で、CD化されていることを知りました(この「カセット・テープの音源をCD-DA化すること」にまつわる話はいつか書く機会があると思います)。
録音していたカセット・テープは破棄してしまったので正確なことは覚えていないのだけれど、CD版のほうがLPレコード版より曲数は増えていたような気がします。

マーク・アイシャムのサウンドはミュートを取り付けたトランペットのような(実際には、シンセサイザーを通したりして電気的加工を施しているのかもしれない)、無駄な抑揚を抑えたソロと控えめなキーボードとジャズをアレンジしたようなところに魅力があるのですが、このアルバムにはドラムにテリー・ボジオ、ベースにミック・カーン、パトリック・オハーン、ギターにデヴィッド・トーン、・ピーター・モウヌといった有名なミュージシャンが不必要に作品に関与したりすることなく参加していることでも有名なのだけれど、そんなことみなさんは知りませんよね。
まあ、僕も参加しているミュージシャンに関してはレンタル・レコード・ショップでLPを借りて、カセット・テープにダビングした頃にはまったく気にも止めていなかったのだけれどね。

マーク・アイシャムは近年、映画のサウンドトラックを多く手がけている上、彼独特のトランペット・サウンドを知っていれば、きっと「これって、マーク・アイシャムがサウンドトラックを手がけている」とすぐに気がつくはずだと思うのですが、知らなくてもまったく普段生活する上には問題はありません。

最近はweb上でサウンドトラックを担当したミュージシャンを調べることができるようになったけれど、完全ではないので、「このサウンドトラックはだれが担当したんだ」、「挿入歌を担当したミュージシャンはだれなんだ」みたいにエンド・ロールは最後まできちんと観ましょう。

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雑文

2012年1月25日の雲はなにを運ぶのか?

2012年1月25日の雲はなにを運ぶのか?

“外は寒さがぱりぱりいいそうな冬が続いている。かなり静かだ”

2011年9月26日のblogで書いたアンドレイ・クルコフの「ペンギンの憂鬱(翻訳:沼野恭子、新潮社)」の中にそのような文章があります。

西の空にまるで日本時間2012年1月23日未明に表面にフレアを発生した太陽の光を運んでいるかのように低く垂れ込めた雲がゆっくりと動いていました。
いくつもの陽光の帯が地上へと天空へと伸びています。

“どういう状態を「正常」と呼ぶかは、時代が”変われば違ってくる。以前は恐ろしいと思われていたことが、今では普通になっている。つまり、人は余計な心配をしなくていいよう、以前恐ろしいと思ったことも「正常」だと考えて生活するようになるのだ。だれにとっても、そう自分にとっても、大事なのは生き残るということ。どんなことがあっても生きていくことだ(アンドレイ・クルコフ「ペンギンの憂鬱」、翻訳:沼野恭子、新潮社)」”

2004年に出版された本書で既に、アンドレイ・クルコフはウクライナの空の下からこのように警告しています。

“大切なのは事実かどうかを証明することではなく、事実と仮定して物事を動かしていった時に、最後まで矛盾なく成立するかどうか確かめるというやり方をすること。すべての可能性を検討して同時にすべてを疑うこと”

と2006年に長編小説「チーム・バチスタの栄光(宝島社)」の中で登場人物に語らせたのは海堂尊。

“今世紀だけでも、あんまり同じことが繰り返し言われるものだから、僕は勘定するのをやめたぐらいだよ”

とジョン・ガードナーは1980年の作品「ゴルゴダの迷路(新潮社)」の中で登場人物にそう語らせました。
そうさ、1980年にね。1980年って、もう随分と昔のことのように思えるけれどね。

テクノロジーの進歩とともに僕が忘れてきたのはいったい何なんだろう、と時々思います。

今日の雲は「光の束」の他になにを運んでいるのだろう?
「雪」、「寒気」、「恐怖」、「怒り」、「悲しみ」、「だれかへの想い」それとも「レトリック」?

* blog内、全て敬称略です。

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雑文

榛谷泰明 編/レトリカ 比喩表現辞典[第二版]

榛谷泰明 編/レトリカ 比喩表現辞典[第二版]
外気は肉体を切り裂く金属ように冷たく、その冷気は靴の底から渦巻くように這いずりあがり、夕刻の空をオレンジ色に染める陽光の中を舞う雪が人々の口をかたく閉じさせた神戸の2012年1月24日。

僕のココロは凍った水に浸されているタオルのように、そしてよどんだ池の水の動きにも等しく、僕のココロが祭りのあとの風船みたいにしぼんでいきます。

本の帯には「もっと、ことばを!」「古今東西の文芸作品のなかから1300項目・4000事例の比喩表現を集めた機能的でコンパクトな文章表現の宝庫」とある白水社から1994年に刊行された「榛谷泰明 編/レトリカ 比喩表現辞典[第二版]」という辞典です。

榛谷泰明が約10年かけて、文芸作品のレトリックを約3,500事例集めた1988年の辞典「比喩表現辞典 レトリカ(白水社)」を[第一版]と称し、比喩事例を約4000増やした本書を[第二版]と呼ぶようです(内容に重複があるかどうかは確認していません)。

翻訳小説におけるレトリックは原作者よりも翻訳者の技量に左右されることが多いと勝手に思うのだけれど…。

辞典としての機能はほとんどない、偶然開いたページの比喩表現の事例を読んで、僕ならどうするだろうかと考える程度のものとして使うのが最適かも知れない。

レトリックは作業報告書や業務報告書や議事録には無縁の世界です。
そこは「A = B = C= …」という式が似合う世界だからね。

“<詩>のありすぎる詩は、五本の指に宝石をはめているようで俗悪である、と評した詩人があったが、このように詩においてさえ、詩的効果をあげるためには詩的でない部分を必要とする(池上嘉彦、山中桂一、唐須教光著「文化記号論への招待」、1983年、有斐閣)”

とあるのだけれど(僕も実にそう思う)、今日はもう「レトリック」「シニフィアン」「シニフィエ」「コンテクスト」「隠喩」「暗喩」など、「なんでもあり」ということにしてしまおうと。

今、レトリックに満ちた温かいお湯を溜めている浴槽に肩までつかりながら、ミニマル・ミュージックを聴いていたいと痛いほど思います。

「もっとレトリックを!」

* blog内、全て敬称略です。

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マッチ箱/マッチラベル 文具

マッチ・コレクション/「コーリン鉛筆株式会社(燐寸製造会社サンプル)」

マッチ・コレクション/「コーリン鉛筆株式会社(燐寸製造会社サンプル)」/組み立て前
最近入手したマッチは「コーリン鉛筆株式会社」の1967年に発売が開始されたコーリン鉛筆「ハイピアス」と鉛筆削り「コーリン電動鉛筆削り器No.35」の広告用に作られた燐寸製造会社のサンプル、つまりマッチ箱に組立てられる前の状態のマッチラベルです。

旧コーリン株式会社は1916年3月、東京市神田区(現在の東京都千代田区)に赤木廣八商店として創業され、鉛筆製造及び文具事務用品卸商として製造販売を開始し、一時、株式会社インセンスシダー製作所と社名を変更、後に「コーリン鉛筆株式会社」と改称しました。しかし、1997年に倒産、国内での法人はいったん消滅しましたが、日本において、2007年、「株式会社コーリン色鉛筆準備室」を設立、2009年、「株式会社コーリン色鉛筆(Colleen Pencil Co,.)」として法人化されました。

コーリン鉛筆をご存じない方も、株式会社コーリン色鉛筆(Colleen Pencil Co,.)にて復刻版の商品、新しいアイテムの購入が可能ですので、是非使ってみてください。

さて、この入手したマッチ箱に組立てられる前の状態のサンプルを組み立ててみました。

マッチ・コレクション/「コーリン鉛筆株式会社(燐寸製造会社サンプル)」/組み立て後
この入手したマッチラベルのサンプルは通常のマッチ箱で使用されている厚手の紙に印刷されていますが、大切なマッチ・コレクションなので、スキャナーでパーソナル・コンピューターに取り込んで、少し加工を施し、市販の写真用光沢紙に印刷、切り取りを行い、組み立てました。そのため、実物と色や箱の厚みがやや異なっています。

マッチ箱側面にヤスリ状の摩擦面(市販のマッチの不要なマッチストライカーか交換用マッチストライカーを側面のサイズに切り取って)を貼り付けると立派なマッチ箱になるはずです。

旧コーリン株式会社、株式会社コーリン色鉛筆については公式サイト、または「Kero556と文具と小物たち(2011/12/10、諸事情によりブログの更新等一時中止)」を参照してください。

「株式会社コーリン色鉛筆(日本公式サイト)」のサイトはこちらにあります(clickすると別ページで表示されます)。

blog「Kero556と文具と小物たち」(clickすると別ページで表示されます)。

あわせて、2011年11月13日のblog「よみがえった人気商品「鉛筆に人生かけた」と題して/コーリン色鉛筆」も読んでいただければうれしいです。

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雑文

いろんな物事に折り合いをつけるのに時間がかかるんだ/ベランダの夕陽

いろんな物事に折り合いをつけるのに時間がかかるんだ/ベランダの夕陽
こんばんは、久しぶりの夕刻の空。
今日、自宅でいらないものを2つ処分した。いらないと判断する基準は僕の中にしか存在しない、ある種の温度計のようなもので、温度計がこの値を示したら、エア・コンディショナーの電源を入れる、この温度なら電源は入れないという個人的な基準で、他人から強要される類のものではない。
2つのいらないものを処分しながら、「過去を清算する」、「過去と訣別する」という言葉が浮かんできた。

手持ちの三省堂の「新明解国語辞典(第二版)」によると「清算」とは「今までの貸し借りをすっかり整理して、後始末をつけること。[今まで続いて来た、不本意な関係に結末をつけることにもたとえられる]」、「訣別」とは「一緒・だった(に居た)ものから別になる。離別する」とある。

「過去を清算する」ことも「過去と訣別する」ことも通常では不可能だ、と僕は時間という概念を物理学、哲学、脳科学、文学、心理学という学問による専門的な分析に脅迫状を送り、強引に抑え込んで、そう思う。

“起こってしまったことは起こってしまったことです(村上春樹「ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編」、新潮社)”

1秒1秒過去に置き換わっていく事象の上に僕は立ち、自分の心の整理をつけようとしたとき、過去の清算、過去と決別いう行為は自分の身勝手な思い込みでしかないように感じる。
物理的な過去の変化を不本意だと消し去ることは許されるべきことではないし、僕には過去と現在は訣別できないコインの裏表のような関係に思えるからだ。
もちろん、いろんな考え方があって当然だし、すべての人が同じ考え方をするようでは個性なんて、存在しなくても構わなくなるんじゃないかと思うし、僕が書いていることが正しい解であると信じるに値する「裏付け」すらない。

未来に関しては僕は何もわからない。
いろんな物事に折り合いをつけるのに時間がかかるスロースターターであることにかわりない。

“人生は人の事情にはおかまいなく勝手に流れていく(村上春樹「村上ラヂオ」、新潮社)”

僕はそれほど変わっていない。

「ぼくはきみらとは違うんだ。わかっているくせに。ぼくはオールAの優等生じゃなかったし、天才でもない。ただの低能なんだ(ブラッド・メルツァー「最高裁調査官」、翻訳:中原裕子、早川書房)」

* blog内、全て敬称略です。