世の中にはいろんなキャッチコピーがあふれているいるわけだけれど、この数年間というのか、webの進化によって、キャッチコピーが本来持っていた人の心を動かすような、濃縮さえれたジュースのような豊潤な文体はどこにいってしまったんだろうと思うことがある。
さて、「レトロで異国情緒」と言う表現が使われだしたのはいつのことなのかわからないのだけれど、よく目にするし、耳にする。
目や耳から入力された「レトロで異国情緒」という文字や音声は信号となって、神経回路を通って、脳に伝わり、僕の脳に蓄積されていく。
それは手のひらに静かに降り落ちてきて、溶けていくひとひらの雪のような情報でしかないのかもしれない。
でも、僕の脳には「レトロで異国情緒」という表現はあまりのも多く蓄積され、その上溢れてしまうほどで、少しココロが困惑し、感情が悲鳴をあげる(「レトロで異国情緒」という表現が好きな人に悪気があるわけではありません。気に障ったら、ごめんなさい)。
「もう、おなかがいっぱいなんだ。お願いだから」と。
そう、アレルギーと同じなんだ。許容範囲を越えるともう取り返しがつかなくなる。
ところで、「仕事に追われる」という表現があるけれど、あまり「追われた」ことはないと思う(「追われている」人には申し訳ない)。
僕はいつも「仕事を追いかけていた」し、時には「仕事に追いつき、追い越すこと」もあった。
どちらかというとスロースターターで気の利かない不良品の僕が「これでも少しは優秀なんだよ」と言い訳をしたいわけではなく、まったく、日本語って言うのはややこしくて、面倒なんだから、と言いたいだけです。
まあ、「仕事に追われる」くらいの仕事を与えられなかったんじゃないの、という意見は僕なりに尊重したいと思うし、実際、そうだったかもしれない。
「仕事に追われる夢」はよく見たけれどね。