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阪神淡路大震災から17年目の朝の眠り

阪神・淡路大震災から17年目の朝の眠り/1.17 KOBEに灯りをinながた(JR新長田駅前広場)
この何年か1月16日から1月17日に日付が変わると、1995年の兵庫県南部地震が起きた午前5時46分まで眠ることができない。
眠れなくなるのは振り払うことのできない寒さのせいかもしれない。

まるで砂浜に引いては押し寄せる波のような浅い眠りと覚醒を繰り返し、果てはベッドから出て、読みかけの本があればそれを、なければ今までに読んだ本の中から目に付いた本を手にして読む。

もともと眠りは浅いほうなので、眠れないということは今日という日に限ったことではないのかもしれない。

1995年1月17日、僕は垂水にある実家でどこから聞こえてくるのかわからない表現のしようのない音に気が付いてベッドで目を覚まし、やがてやってくる大きく縦に揺れる衝撃でベッドから飛び出し、家具がいたるところで倒れ、ガラスが割れたり、何かが落下する音を耳にすることになる。
廊下を挟んで父と母が寝ている和室の様子を見るために部屋の扉を押して開けようとするが、扉の向こうで倒れた僕より背の高い細身の本棚が邪魔をして、10cm程度の隙間を得ることがやっとだった。

父も母も僕に向かって「落ち着け!」と叫んでいるのだけれど、冷静さを取り戻していた僕は「落ち着いているよ! そっちはどうなの?」と揺れる家の中で、叫び返す。「本棚が倒れて、ドアが開かないので、そっちに行けないけれど」
扉を蹴り倒そうと思ったとき、再び「落ち着け!」と怒鳴る声が聞こえた。「そんなことをするとドアが壊れる」
「ああ、そうか…」と僕。

なんとか扉の上部を押して柔らかくカーブした隙間を作ると、そこにからだを無理やり入れ込んで、廊下に倒れた本棚の上に出た。

無傷だった父と母と僕は余震に備え、1階からいつでも外に出られるよう、厚手の服を着込んで、1階へ下りた。
リビングの天井に取り付けられていた照明器具は落下し、床で修理できないほど大きく破損し、テレビはのっていた台の上から落ち、キッチンでは食器類が散乱しているのを確認した。

かなり大きな地震だった程度にしか、そのときの僕たちは思わなかったし、停電のためテレビは映らない、電池式のラジオからは震度を告げる断片的な情報しかない、電話は不通という状況だったので、僕たちはしばらく外へ出ることにした。
いくつかの家の屋根瓦が落ちて、砕けている。
僕たちは自分たちの家を見上げ、屋根瓦の一部がずれて今にも落下しそうなことに気が付く。壁にも亀裂をいくつ認めることができた。

寒さと静寂以外に感じることは何もなかった。からだを締めつけるような冷たい空気と世界の淵に立っているような静けさだけを僕は感じた。

午前8時20分ごろ、家の近くの公衆電話から勤務先である大阪支社の電話番号を回し、「バスが動いていないみたいだから、今日は午前中、会社を休む」と既に出勤していた女のコにいつもと変わらない口調で伝え、自宅に戻る。

午前中、部屋を片付けながら、僕たちは正月明けから長田区にある娘のマンションへ遊びに行っている祖母の安否を気遣うが、電話が鳴ることはなかった(祖母が遊びに行っていた長田区のマンションから電話があったのは4、5日後だったと思う。「元気だよ、今から帰る」って)。

電気が復旧した後、テレビで大きな被害が発生していることを知った僕は午後になると、再び公衆電話から大阪支社へ「会社へ行く手段がないから、今日は会社を休む」と電話口に出た女のコに早口で伝える。

その日の夕刻に電話が鳴るので、僕が受話器をとると「お前の安否の確認が大阪支社でも本社でも一番最後になった。どうしてもっと早く連絡しなかったんだ」と本社の総務部長からきつい口調でたしなめられる。
「休むって連絡したんだけれど…」なんて言わない。僕には「いったいなにが起きているのか」わからなかったことも説明しなかったことを思い出す。

そして、2012年1月17日の僕は午前6時頃から2、3時間程度、眠りの湖にやや深く潜り、眠り、そして仕事に向かう。

湖底に沈み込むように眠ることは決してない。

* 写真は今日17:30からJR新長田駅前広場で行われたイベント「1.17 KOBEに灯りをinながた」

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