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「神戸の壁」はなぜ長田地区にそのまま保存できなかったのか?

「神戸の壁」はなぜ長田地区にそのまま保存できなかったのか?/(No.2,No.3)(1)右から「神戸の壁」の基底部/鎮魂と復興のベンチ「No.2」「No.3」

「神戸の壁」はなぜ長田地区にそのまま保存できなかったのか?/(No.4)(2)「神戸の壁」の基底部/鎮魂と復興のベンチ「No.4」

明日、2012年1月17日で阪神・淡路大震災から丸17年となる(偶然にも17が重なる)。

「神戸の壁」は1927年、神戸市長田区の旧公設市場の防火壁として造られた。
高さ約7.3m、幅約13.5m、厚さ約23cm。
第2次大戦の神戸空襲や阪神淡路大震災の大火にも耐えて立ち続けた。

しかし災害復旧の区画整理事業のため取り壊しの運命を免れることはできず、「長田のこの生誕の地で」保存したいという運動があったにもかかわらず、取り壊されることとなり、北淡震災記念公園に地上部の壁は移設・展示されることとなる。

保存運動に中心的な役割を果たしてきた現代芸術家「三原泰治」によって壁の基礎部分はいすの形にデザインしたモニュメント「鎮魂と復興のベンチ」として「アスタくにづか」の地下通路にひっそりと置かれている。
ここに置かれている「鎮魂と復興のベンチ」は壁の基底部を4つに分割した「No.2」「No.3」「No.4」の3基。

阪神・淡路大震災の記憶が年月の経過とともに薄れていくことがわかっていながら、都市計画という名の下に「神戸の壁」が長田地区にそのままの形で残せなかったことはとても残念だと思うし、この「鎮魂と復興のベンチ」がある場所もわかりにくいのが難点だ。

このモニュメントのそばにある柱にある金属のプレートには「1995.1.17 阪神淡路大震災モニュメント/神戸の壁・鎮魂と復興のベンチ」の説明に続き、次のようなこの文章が書かれている。

“神戸に大震災があったことを
神戸に「神戸の壁」があったことを
決して忘れないで・・・
1999.11.21 製作 三原泰治”

* blog内、全て敬称略です。

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