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雑文

2012年1月2日の夕刻の明石海峡大橋/自分で探し、選ぶということ

2012年1月2日の夕刻の明石海峡大橋/自分で探し、選ぶということ
「空に補助線を…。」というblogに書いた(投稿した)内容に対して、ほとんどあるかないかの程度だけれど、「どこで、手に入るのか?」、「どこで、見ることができるのか?」、「どこに、それがあるのか?」という質問をされることがあります。

2011年7月27日のblog<2011年7月の書店巡り>2011年8月20日のblog<世の中って「偶然」でできているみたいだ、って考える方がおもしろい>にその意図を少しばかり書いたのだけれど、僕は好意的に「はい、ここで手に入りますよ。それならあの場所にあります」とすぐに答えてあげるほど親切ではないので、「やっぱりそれは教えられないです」などと答えてしまいます。
「親切」とはそういうものではないと思っているからです。

たとえば書店へ出かけていって、買いたい本をすぐに店員に訊いて購入したりするよりも、自分でまず探し、そこで「偶然」、全く目的とは別の本を見かける、あるいは手に取ってしまい、別の興味がわいて、買いたい本とは違う書籍に出会ったり、「装幀が魅力的だったから、買っちゃった」みたいな「偶然」を期待する、そして興味の幅を広げて行くことを期待するからです。
僕の思う親切とはそういう類の「親切」です。少しばかり押しつけがましい「親切」ですね。

これだけ情報が簡単に入手できる時代に「なにが正しいか」、「なにが隠されているか」と問う姿勢は常に持ち続けなければならないことだと思います。
確かに全てを自分一人で確認したり、検証したり、考えたりするプロセスには時間がかかってしまい、即座の判断には不適切だし、目的地に達することができないという問題があることは承知しています。でも、グラスからあふれ出たビールの泡のような情報とその量と質に、あえて疑問をもって接して行動することの大切さが必要なんじゃないか、と僕は勝手に思うのです。そしてそれは「偶然」にわかることかもしれません。

2012年1月2日の厚い雲に覆われた夕刻の空をオレンジ色に染めて、明石海峡大橋の向こうに沈んでいく陽光は瀬戸内海もオレンジ色に染めていました。

「この場所へ行きたいんですが?」と交差点の信号待ちや駅のプラットホームや電車やバスの中で、僕が道路脇に立つ電信柱程度の無害さしか持ち合わせていないのか、頻繁に道を訊ねられます(新幹線と飛行機の中では訊ねられたことはないな…)。
そんなときは「それは、こうこう…。いえ、…。次の信号を右に曲がって…。僕も同じ方向に行くので、ご一緒しましょうか?」と僕はきちんと答えてあげますよ。

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